牛肉を使った料理は数多く、日本の食卓に欠かせない食材の1つですよね!
和牛ブランドも様々で、世界に誇れる立派な食文化ですし、牛の飼料や育て方も年々進歩していっています。
現在では普通になった牛肉を食べる習慣は、いつ頃から始まったのか?また、どのような経緯で食べるようになったのか?皆さんは知っていますか?
今回は、日本での牛肉の歴史について、時代別にまとめてみたいと思います!
日本全国で狩猟によって肉は食べられていましたが、牛が渡来したのはもう少し後になります。なので、この頃は猪や鹿の肉が主です。
また、鯨やオットセイなどの海の生き物に頼る地域もあったようです。
私の勝手なイメージですが、この時代は「人々が斧を持ってマンモスを追って食べる肉食」が主食だと思っていました。が、実際は食生活の大部分は栗やドングリ、クルミなどの植物だったそうです。ちょっと意外ですよね。
この頃から、猪・鹿・野うさぎ、そして牛などの肉を食べるようになったと言われていますし、まだ肉食は禁忌ではありませんでした。
ですが3世紀頃の日本には、誰かが亡くなった際に喪主が肉食を慎み、「禁欲」するなどの習慣があったようです。
喪に服す時や何かを祈願する時の禁欲については、「魏志倭人伝」に記載されています。禁忌こそなかったものの、「肉食が穢れに繋がる」という考え方はこの時から始まっていました。
6世紀後半、日本に仏教が伝わります。そして、675年「殺生肉食禁止の詔」が発令されました。
魚介類はなぜか例外となりますが、生き物を殺してはいけないので当然牛も食べられなくなります。
この状況がその後1200年以上も続くのです。ただ、禁止されたのは牛・馬・犬・鶏・猿だったので、野生動物は含まれていない事から、完全に肉食がなくなった訳ではないようです。
平安時代になっても、「肉を食べる事は卑しい」「食べない事が高貴な身分の振舞い」という考え方でした。また、牛などは家畜としての労働力となる存在だったので、余計に食べる対象ではなかったようです。
戦国時代からは、突如焼肉をするようになります。
と言っても、足軽の兵士が戦の時の非常食として食べるのです。
他にも、宣教師の影響で九州を中心に肉食が普及したり、健康回復や病人の養生のための「薬喰い」が始まります。生ではなく、日持ちさせるために「味噌漬け」や「麹漬け」をさせた最も古い牛肉料理と言えます。
しかし、豊臣秀吉はそれを嫌がり、「バテレン(宣教師)追放令」を出して阻止しました。ですが飢餓の時はそんな事も言っていられず食べていたようです…。
肉を食べる事をタブーする日本の風潮は、文明開化の新時代になってからも続きます。
それを最初に破ったのが明治天皇で、その背後にいたのが大久保利道です。
「維新の三傑」の一人で、明治維新の西郷隆盛と木戸孝允と並ぶ人物です。大久保利通は明治天皇に「牛肉は栄養に優れていて健康上大事だ」という事を勧めました。それにより、明治天皇自身が牛肉を口にするようになって、天皇自らが国民に牛肉を食べるように促したのです。
また、キリスト教が解禁され、外国人が入国する事になり、都市部を中心に牛肉の需要が高まっていきます。
そのため、外国人との交流の際に肉食が必要だと判断しました。
そして1869年、東京の築地に政府が牛馬会社を設立、1872年には天皇により「肉食解禁の令」が発令されます。
肉食が解禁されてからも、反発する人達は多く、庶民はなかなか牛肉を食べようとはしません。牛肉に対する穢らわしさが強く根付いていた事と、今ほどの牛肉処理技術がなく、生臭さなどが原因と考えられます。
そこで登場するのが、「すき焼き(牛鍋)」です。これらを出すお店も開店していきます。
開店当初はお客が少なかったものの、徐々に食されるようになり、結果的に大流行しました。外国人からも人気があり、座敷であぐらをかいて食べる鍋という事から、「あぐら鍋」とも呼ばれています。
これをきっかけに、牛肉文化は発展していき、牛肉を食べる事が「文明開化の象徴」となったのです。
1955年頃からは食の欧米化や乳用種雄の肥育牛の食用への転用などにより、急速に肉食が一般化していきます。
そして現在、食べるだけでなく、「神戸ビーフ」などの世界に誇れる和牛文化まで生まれました。
長い間、食べる事を穢らわしいとされていた牛肉ですが、流行してからの広がり、進歩の速度は凄まじいものです。ですが現在のような気軽に「牛肉を食べよう!」となったのは、まだ歴史的には50年ほどしか経っていないのです。
現代人には想像しづらく、牛肉の食べられない生活なんて辛くて考えられないですよね…。
今の時代に生まれていて良かったなと感じます…。
国産和牛は、柔らかく脂がサラサラとして食べやすい、大喜屋のお肉がオススメです。